昭和54年7月1日朝の教話
御理解第81節
氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こ    うへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。

これ程しの、これだけの事が分かった、これだけの修行をしているから安心という事で はない。向こうへ降りたら安心じゃ、と仰せられる。向こうへ降りるまでが、信心修行。私は、安心するという事はね、信心でいう安心とは、天地金乃神様があの氏子はもう大 丈夫と、神様が安心なさる。その神様の安心が、こちらへ通うてくる、伝わってくる。そこへ安心が生れる。そういう、いや、それで安心じゃという所は、そういう事だと思うんです。
お互い、そこを日常の信心の目当てとして信心をいよいよ進めていかねばならん。どう いう事があっても、どういう事が起こっても、どういう場に立たされてもね、いうならば微動もない。いうならば不動の信といいますか、信じて疑わない信心が確立される。
ですから信心というものは、それが身に付いていくのですから、こんな嬉しい事はない、楽しい事はない。それが、しかもあの世にも持っていけるんだ。しかも、あの世に行っても、その間違いのない道を、ただただ、ひたすらに進めていけれる道なのだ。
これだけの事が分かった。これだけの修行が出来ておるから安心というのはね、十里の 坂を九里半登っておるようなもので、そこで、いうなら気を緩めたり、安心をしてはならぬぞと教えておられるわけですね。限りがない。
昨日の大祓式が、今までにない、かってない、そりゃまあ日勝り、月勝り、一年勝り、 代勝りとおっしゃるのだから当然の事ですけれども、今までにかってない、盛大なお祭をさせて頂きました。
なかで、皆さんにお話を聞いて頂いたんですけれども、神ながらなおかげが頂けるとい う事。
それは、合楽で御取次ぎ頂いてお願いなさると、神ながらのおかげが頂ける、そういうおかげじゃない。各々の心の中に、自分の家庭の中に、神ながらなおかげの頂ける信心。
為には、いよいよ神ながらな信心に取り組み精進さし頂かねばならない、という事だったですよね。
神ながらな信心。やはりこれはね、どうでも信心修行の最高のものですからね、いよい よ、神様が与えて下さろうとするお徳とか、与えて下さろうとするおかげ、それを頂く前提としての修行なんです。いわゆる成り行きを、いよいよ尊ばせてもらう、大事にさせてもらう。これは、神ながらの最高の修行だと思うですね。
神ながらですから、それは嫌です、それは困りますというのではない。神ながらに受けて立たせて頂く信心。もう、それも本当に腹が決まりますとね、もう本当に、こんなに有難いものであろうかという事になるんです。
それは、私の過去二十数年の信心を聞いて下さっているからお分かりになるように、も ういよいよ修行のしようがない。もう、あらゆる修行、たとえていうならならば、その表業、心行という事には限りがないですけれども、まあ、お徳を受けられた修行というものは、殆どし尽くしてしまったように、し尽くしてしまったけれどもおかげにならなかった。私の場合はね。
そこで、わけは分からなかったけれども、とのかく私の上に起きてくる事柄、その総て を一切を黙って受けさせて頂くという修行が、四年半続いた。
神様は、四年半終って、もう半年すると五年祭があるという、丁度、五年の記念祭の半年前の御大祭の時にね、今お前がしとるという修行というのは、いうならば、分かり易く云うならば『余りもの信心じゃ』と、と云うてそれまではじいっと、こりがほんなもんじゃろかというて神様が見てござった、という感じです。
御心眼に、ほうれん草を畑から抜いて来ただけの、泥もちいったついとる、ひげもつい とる。それをね、いかにほうれん草が血にもなる、肉にもなるかと云うても、赤い葉位は取っていいぞ、泥やらはきれいに洗い清めて、いけん所は摘み切っとって、そして頂くという信心になれよ、と云う時に初めて「成り行きを大切にする」という信心が、合楽でいうならば発表されたわけです。
私が四年半させて頂いた修行、これがいよいよ、成り行きを尊び、大切にする、それは そのまま、神様を尊び、神様を大切にする事、だと頂いた。
それこそ、少し位、砂が付いておっても、じゃきじゃきいうのでも、実は、それが有難かったのです。頂く、と決めたら赤い葉でも何でも頂いたんです。
けれども、それ以来の信心というのは、いうなら血に肉になる所だけを頂いたという、 それが皆さんの上にも、それを皆さんにも申しておるわけでございます。もうこれがね、一番最高の信心修行です。その信心修行が繰り返されている中に、いわば合楽理念の、いわば確立を目指したという信心が生れてまいりました。
 もう、これに極った。合楽の信心は、土の信心だ。
人間は、土より出でて土に還る。その道中とても、途中とても、やはり土の信心でするのが一番、いうならば自然の法則に従った生き方であるとして、土の信心を、皆さん一生懸命稽古して来なさったわけです。もうこれに極った、もうこれまで、のような感があったんです。ところが、一週間程前に頂きましたご理解から、今までの信心は、大地の信心、土の信心にいうなら偏った信心であった。
これからは、天の信心。蓬莱山とは、こんな山であろうかと思われるような蓬莱山の八分目位のところまで登っておる私は、後の二分か三分の所を『天の信心じゃ』という風に頂いた。
天の信心とは、説明には頂き続けて来た事です。地の信心が、黙って治める。それこそ いよいよね、受けて受けて受け抜く信心を大地の信心、土の信心というなら、天の信心は限りなく美くしゅうなることだと。うるわしの心だと、しかも無条件なんだと、しかも与えて止まないという心なんだと、私共は教えられてまいりましたけれども、そんならそれを実際に実験するという所までは至っていなかったという事でございます。
いわゆる、天の心とする信心の実験に取り組ませて頂くと、それにはいよいよもって限りなく美くしゅうならにゃいけない。
これは、昨日も申した事でしたけれども、土の信心が本当に身に付いたらね、、第一問 題がなくなるです。黙って受けるんですから。どういう理不尽な事であろうが、身にあまるような事であろうがです、自分が豊かな心で受けてゆくのですから、問題は、その場で解決するです。無論、腹などたつはずはありません。いらいらなどおこるはずもありません。
ところが、実際問題として腹も立つし、イライラもカチンと来たという事もあるわけで すから、はあ、これはまだ土の信心に徹底していないんだなあと気付かせてもろうて、いよいよ、これは土の信心にふんまえてね、その信心修行も勿論、完璧を目指して進むと同時にです、天の心を心とする信心姿勢に取り組まして頂く、その道立てが出けた時に、はじめて神様がもう安心だと思うて下さるとじゃなかでしょうか。
その頃には信心の楽しさとか、有難さとか、いうならばリズムにのった生き方というも のが身に付いてくるから止めようと、止めろといわれても、もう止められないです。しかも、地の信心だけじゃない天の心を心とする生き方というものを、いよいよ身に付けていこうという精進していくのですから、神様が安心して下さる。
「向こうへ降りたら」というのは、そういう信心をそのままあの世にも持っていけれる だけの信心にした時に、「向こうへ降りたら安心じゃ」という完璧な、まあいうならば大安心の境地と申しましょうかね、という事になるんですけれども、合楽に御縁頂いとる方たちは、いよいよいやがおうでも、この天の心の信心に取り組まねばいけないという事になります。
昨日は、三十日の御礼信話会でしたが、もう永い事御礼信話会を続けてまいりましてけ れども、昨日ほど本当に御礼信話会だなあ、とりわけ昨日は、なら一月の締め括りだけではなくて、半年間の御礼大祓式を受けた後でございましたから尚更でしょうけれども、私はもう、一人一人のその発表を聞かせて頂いて、素晴らしい素晴らしいと連発しながらお話を頂きました。
素晴らしかった。御話は五分か十分ですけれども、あれを一時間も時間をかけて、その 方が話されたら素晴らしい話になるだろうと思うようなお話ばかりでした。
昨日は、光昭が司会をしました。私は、わが子ながらほとほと感心しました。もうこん な素晴らしい司会ははじめてだというてから。もう一人一人の話を、御話が素晴らしいもんですから、こちらもやっぱり、こう引き出されるわけですね。もう本当に、司会のいうなら発表を聞かせて頂き、発表というか、お話を聞かせて頂きながら、もういよいよ発表した方もいよいよ自分の信心を極められる事になるでしょうし、聞いている者も、いや本当に素晴らしいなあ、信心ちゃかっきりだね。限りがないなあ、というふうに思わせて頂いたんですけれどもね。
これはまあお話しでなら一番簡単な、お話しとしては一番下手なお話しだったでしょう けれども、久留米の光橋先生がお話ししていました。
もう、大祓式の案内とかはらえつもの等を、もう沢山、自分の周辺の人たちに配らなん けれども、あんまり早よう配とって忘れられてはならんからと思うて、その前日に配って廻った話しをしておりました。
もう丁度、雨の中を一軒一軒廻らせて頂いて、皆が喜ばれるわけ、去年もおかげを頂いてまあ一年間無事息災、交通事故にも遭わずおかげ頂いたと、またどうぞお願いしますというような程度の事なんだけれども、その雨の中、一軒一軒歩いているという事が有り難うして有り難うしてという、それだけの話しでした。
それを司会が、とらえて云っておるんです。信心とはね、その有難い有難いを感じる事 が信心なんだ。しかも、それはお天気だから有難いのではない、雨風の中にね、しかも自分の事でもない事に、いうならば奉仕しておる。そのことが、有り難うして有り難うしてと感じる心が信心なのだ、自分の信心のバロメーターともなるし、自分の信心の心の定規を押しあてたようなものだというわけなんです。
皆さんどうでしょう。なら、光橋先生のその信心がです、とても一年、二年で出来たと は思われない。もうそれこそ、この人こそ、光橋先生、いや先代の光橋先生にも苦労させられた人です。もう家庭の中でも、さまざまな家庭状況の中で修行しぬきましたし、お道の教師にお取り立て頂くまで、又、光橋先生がいる頃は、久留米から歩いて日参してまいりました。もうそれこそ、その日参の途中には、いろいろな事がありました。もう、いろんな怪我をするようね事もありましたけれども、ゆるめないですね。
そして、今日のいうならば、私はお話しはでけんけれども、という話しはどういう事かというと、雨風の中、しかも、人の為にです奉仕している事が有り難うして有り難うしてという心が開けて来た、ね。
信心とは、それを開かせて頂く事です。だから、感じる事もです、なら、人が問題にす るような事でも、ひとつも問題ではないというようなおかげが頂けるというわけでございます。
天の信心とは、身を削っての信心です。土の信心とは、心を削る。その身を削り、心を 削るという信心が、いよいよ有り難うなって来た時に、はじめていうなら、天の心を心とする信心が身に付いて来たと云う事になるのではないでしょうか。
体にも余裕が出来、経済の面にもおかげを頂いてね、どういう御用でもさせて頂ける、 どうぞ御用が出来ますように、そういうおかげも頂かせて下さいという御用なら、いうなら誰でも出来る事。商売人なら、商売大繁盛のおかげ頂いて、どんどん御用でもさせて頂くという事は、誰でん出来るでしょうが。
時間もない。お金もない。けれどもね、止むに止まれない、それこそね、止むに止まれ ん信心の真をあらわしていくという事がです、そうせずにおられないという信心、そこにはいうなら、身を削ってもという事になります。今まで、百円使っていたのを八十円にしよう。これが、身を削る事ですよね。そういう身を削った信心をさせてもらう所に、神様の喜びが与えられないはずがない。神様の喜びが、又、氏子に還って来ないはずがない。初めて、神様との交流という事になる。合楽し合える世界があり、そこから生む出されてくる所のおかげはもう限りのないおかげ。
その限りないおかげを頂いて、限りなく奉仕させて頂こうという、二、三日前に朝の御 祈念に、『天の理』という事を頂いて、はあ、私はすぐ天理教という事を直感した。天理教というのは、いうなら、天の理を解かれる。その教風というか、その教えがそのまま「ひのきしん」といったような、自分というものを空しゅうして奉仕をする。天理教といえば、ハッピを着て奉仕するね。それこそ、心を削り、身を削りして神様への御用立てをさせてもらう。
なるほど、これは天の信心だと。けれども合楽の場合は、そういう信心が樹立される前 に土の信心という基本がある。土台がある。その土台に立つ所の、天の理であり、いうなら捧げる生活であるというのだから、もう捧げそこないがないがない。いうなら合楽し合うて、生み出されるおかげがそこには約束されるわけ、ね。
為にはね、私共が天の心とは、といよいよ追求に追求さしてもろうて、限りなく美しく、しかも無条件の奉仕出来れる日々の生活。
神ながらな生活をしただけで、いうならば土から生れて土に還るという「木偶」デクと 云いますよね、土の人形の事を。それに心を与える、それに動きを与える。それに開眼させる所の働きが、天の心の信心だという事になります。
それを、どういう事かというとです、甘木の初代は「私は、神様の前のあやつり人形」 とおしゃった。
神様は、人形遣いである。手を上げといわれれば手を上げ、足を上げれといわれれば足を上げられる信心。
「でく」では動きがとれん。これに天の心が出来た時に、そういう神様のよき操り人形 としてのおかげを頂く事になるのではないでしょうか。本当に、神様任せの信心というのは、天の心、地の心の信心が分かって、そしてその手立てが分かり、いうならその道がはっきりしてくる所からね、今日の御理解であります。
それは、「十里の道を九里半登っても安心してはならん」という所から「向こうへ降り たら安心じゃ」とおしゃる、向こうへ降りたら安心というのは、その人形が本当にです、手を上げろち云やあ、足どん上げとるといったようなことじゃでけん。本当に手を上げろとおっしゃりゃ、手を上げる。足を上げと云われりゃ足を上げられるような信心をさせて頂いて、はじめて神様が安心して下さる、喜んで下さる。その安心が、又こちらへ返って来ないはずがない。それを聞いたから、今、でけるという事はないけれども、実行は、今からでけるという事ですよね。                                                             どうぞ
 「実験」そして「実証」していく信心をさしてもらわにゃいけん。
昨日、光昭が最後に申しておりました。親先生が、いつも実験、実証といわれるが、もう日のなかにでも何か困ったとか、又、大きな問題に取り組んだ時こそが一番実験がしやすい時だと、そして、また実証を体験し表わしゆく事が出来る時だという話しをしてましたが、成る程そうだと思います。
何かがある時にゃ、医者だ、薬だといったようなことではね、もうどんこん出けん。
そういう時にこそ、いよいよ日頃の教えを実験して実証して行く時です。難儀がある時ほど、実験しやすいんだという事なんですよね。                                                      どうぞ